LOGIN「来いよ」
俺は剣を構えた。
怖くないわけじゃない。
足は重く、腕もまだ痺れている。
それでも、もう一度地面に転がされるために、ここへ立ったわけじゃない。
アストリアの神殿の裏庭。
白い石柱に囲まれた芝生の中央で、俺はルゥの召喚したスライムと向き合っていた。
青白く透き通った小さな魔物。
見た目だけなら、子どもでも倒せそうに見える。
だが、昨日の俺はこいつに振り回された。
剣は当たらない。
足は取られる。
動きは読めない。
この世界で魔力のない俺が、どれだけ無力なのか。
思い知らされるには十分すぎる相手だった。
けれど、俺は剣を下げなかった。
少し離れた場所で、ルゥが俺を見ている。
長い金髪。背に広がる白い羽。
天使族の長。その姿は、ただ立っているだけで空気を支配していた。
「まだ挑むのか」
ルゥが静かに言った。
冷たい声だった。けれど、雑ではない。
試している。測っている。
俺が本当にミユウのそばに立つ資格があるのかを。
「挑むんじゃない」
俺は剣を握る手に力を込めた。
「勝つんだ」
ルゥの瞳が、わずかに細くなる。
「魔力もない。技も未熟。戦い方も知らない。それで何を根拠に勝つと言う」
「根拠ならある」
「何だ」
「俺が、もう逃げないって決めた」
言った瞬間、自分の中で何かが定まった。
俺は勇者じゃない。
まだ救世主なんて呼ばれるような人間でもない。
けれど、ミユウを守りたいと思った。
あの白い羽の少女を、もう一人で泣かせたくないと思った。
それだけは、誰かに与えられた役目じゃない。
俺自身が選んだ理由だ。
「口でなら何とでも言える」
ルゥが片手を上げた。
空気が張り詰める。
芝の上に淡い光が落ち、青白いスライムが跳ねた。
その瞬間、体がぐにゃりと歪む。
一体だったはずの姿が、二つ、三つ、五つに分かれた。
俺を囲むように、同じ姿のスライムが跳ね回る。
右。左。正面。背後。
さっきの俺なら、全部を目で追おうとして、全部に騙された。
でも、もう同じ失敗はしない。
俺は剣先をわずかに下げた。
焦るな。
目だけに頼るな。
魔力がないなら、感じればいい。
読むんだ。奴の動きを。
芝が沈む音。
空気を押す気配。
跳ねる直前の、ほんのわずかな間。
偽物は軽い。
本物だけが、地面を押す。
右から一体が飛び込んでくる。違う。
正面から迫る一体。これも違う。
俺は動かなかった。
ルゥの視線が鋭くなるのが分かった。
動けないんじゃない。待っている。
本物が来る、その瞬間を。
背後の芝が、深く沈んだ。
来た。
俺は振り返らず、半歩だけ体をずらした。
青白い塊が肩すれすれを掠める。痛みが走るが、歯を食いしばった。
見えた。
こいつだ――!
スライムが地面に落ち、次の跳躍のために体を縮める。
その一瞬を、俺は逃さなかった。
踏み込む。足が芝を抉る。
腰を沈め、体ごと剣を振りかぶる。
スライムが跳ね上がった。
高い。頭上を越えようとしている。
普通なら着地を待つ。頭ではそうわかっていた。
だが、俺は地面を蹴った。
「逃がすかぁっ!」
残りの力を全部、足に叩き込む。
体が浮く。
世界が、一瞬だけ静止した。
青白いスライムが、目の前に。
俺の剣が届く距離に。
そして――俺の方が、上だった。
さっきまで見上げていた相手を、今は見下ろしている。
その瞬間、すべてがクリアになった。
魔力なんかいらない。
スキルも、技も、いらない。
今、この一瞬だけは、俺が勝っている。
「おおおおおっ!!」
剣が唸りを上げて振り下ろされた。
綺麗な軌道じゃない。洗練された一撃でもない。
ただ、迷いだけはなかった。
刃がスライムの本体を捉える。
青白い体が、真っ二つに裂け、光の粒となって爆散した。
芝の上に、淡い欠片が星のように降り注ぐ。
俺は着地した。
膝が笑う。視界が白く霞む。
それでも、俺は倒れなかった。
剣を地面に突き立て、真正面からルゥを見据えた。
裏庭が、静まり返っていた。
ルゥは無言だった。
いつもの冷たい否定も、嘲りも、ない。
ただ、その黄金色の瞳が、わずかに見開かれている。
天使族の長。
ミユウの幼なじみ。
俺を雑魚と呼んだ男が――言葉を失っていた。
胸の奥が、熱い。
スライムを斬ったことなんかより、
この沈黙が、俺に勝利を教えてくれた。
「……見たか」
声がかすれる。それでも俺は言った。
「俺は、斬ったぞ」
ルゥはまだ黙っていた。
一秒、二秒。
その沈黙が、俺には歓声よりも大きく響いた。
やがて、彼は低く、絞り出すように言った。
「……今の動き、偶然ではないな」
その一言で、背筋に電流が走った。
ルゥが、認めた。
俺を否定し続けた男が、初めて俺の一撃を認めた。
「魔力のない人間が……あの一瞬で本体を見抜いたか」
ルゥの表情が複雑に歪む。
認めたくない。だが、切り捨てられない。
そんな顔だった。
「……なるほど」
彼は短く息を吐き、静かに続けた。
「雑魚のくせに、無茶しやがって」
その声には、ほんのわずかだが――熱があった。
俺は笑おうとした。頰が動かない。
それでも、喉の奥から小さな息が漏れた。
「……勝った、だろ」
ルゥは一瞬目を伏せ、それから短く答えた。
「ああ。勝ったな」
その言葉が、胸に突き刺さる。
ルゥが俺の肩を掴み、倒れかけた体を支えた。強い腕だった。
「今の一閃だけは、認める。……少しだけだが、勇者の素質はある」
勇者。
その言葉が、今までで一番重く、熱く響いた。
俺はまだ弱い。
最強にも、救世主にも、ほど遠い。
でも今日、俺は確かに一歩、踏み出した。
雑魚と呼ばれた少年が、自分の剣で敵を斬り、
自分を否定した男に、認めさせた。
その事実は、誰にも奪わせない。
意識が遠のく中、俺は白い空を見上げた。
(ミユウ。見てたか? 俺、勝ったぞ)
ミユウの唇から、息になりきらない声が漏れた。寝具を握る指が少しずつ丸まり、白い服の胸元に深いしわを寄せる。布団の脇に出た小さな翼は、何かを振り払おうとするように震えていた。 窓の向こうでは風が鳴っていた。昼間のぬくもりを失った石壁に囲まれ、寝台だけがひどく頼りなく見える。俺は制服の袖を引き上げ、ミユウの頬に張りついた銀白色の前髪をそっと撫でた。そばに立つルゥが、眩しくないよう燭台を遠ざける。 指が額に触れた瞬間、ミユウが飛び起きた。「葵!」 俺はすかさず抱きしめた。背中へ回しかけた腕をずらし、傷と翼を避けて体を支える。寝具の下にこもっていた熱が伝わってきたのに、俺の首筋へ触れた指先は冷たかった。「葵は隣の部屋で母さんと寝てる。大丈夫だ」 ミユウは戸口を見つめた。俺の声が届いていないのかと思った頃、制服をつかむ手に、いっそう力がこもった。「でも、さっきまで……手、つないでたのに。葵、ちゃんといる?」「ああ。朝になったら、一緒に会いに行こう」 彼女は唇を噛み、俺の胸へ額を押しつけた。無事だと何度言っても、夢の中で離れた手は、まだ彼女の中で見つからないのかもしれない。俺は続きを急がず、細い肩が上下するのを待った。胸の呪いが鈍く疼いたが、身じろぎして、この腕までほどけると思わせたくなかった。 小さなノックの後、父さんが入ってきた。寝台へ近づく足が途中で止まり、俺にしがみつくミユウへ目が留まる。ルゥに向けた声は低かった。「心的外傷後ストレス障害ではないか」「シンテキ?それは現代日本の呪文ですか?」 父さんは説明しかけるように口を開いた。しかし、ミユウの顔を見て唇を閉じ、視線を床へ落とした。「なんでもありません」 父さんまで言葉を選んでいる。そのことが、聞き慣れない言葉より胸に残った。俺はミユウの手を包み直した。指の力が少し緩んでも、廊下で物音がすると、また制服が引かれる。「お兄さん、寝ちゃっても、ここにいてね」 うなずくと、彼女はようやく目を閉じた。俺はその後も椅子へ戻らず、寝台の縁で体を支え続けた。腕の中の呼吸が深くなるまで、蝋燭の芯が焦げる匂いと、窓を鳴らす風だけが長い夜を少しずつ進めた。 翌朝、カーテンの裾に明るい線が差した。 隣室から葵の声が聞こえたとき、ミユウは俺より先に顔を上げた。扉のところに現れた葵を見つめ、差し出された手
昼間の白い服から着慣れた制服に戻り、袖口を整えると、肩の力が少し抜けた。回廊を染める夕日の中で、母さんと美咲が明日の婚礼に使う花をのぞき込んでいる。花瓶を置いた台の後ろには、壁を斜めに走る亀裂が残っていた。その前で聞き慣れた声が交わされることが、不思議で、離れがたかった。「ミユウ、城の外に綺麗なお花畑見つけた。遊びに行こうよ」 葵に手を取られ、ミユウが困ったように俺を振り返った。銀白色の髪の間からのぞく頬は緩み、背中の小さな翼が、行きたい気持ちを隠せないように浮いている。引かれるままに踏み出した足が白い服の裾を揺らすのを見て、俺も笑った。「俺もすぐ行くからな」 葵が花畑の方角を言い残す。二人の後を追おうとしたところで、父さんの声が背中に届いた。「龍夜。本当にここに残るんだな。勇者として生きることまで、引き受ける覚悟はあるのか」 父さんの目が一度だけ俺の胸元へ落ちた。答えを急かされないことが、かえって胸に重かった。回廊の向こうでは葵が何か言い、ミユウが声を立てて笑った。あの笑い声のそばで暮らしたい。そのために必要なことを、父さんに言われるまで考えていなかったわけじゃない。「ミユウと、ここで暮らしたい。守るために戦うことも、誰かに任せて逃げるつもりはない」 父さんは唇を結んだまま俺を見ていた。隣から伸びた母さんの手が袖に触れ、布越しに腕を包む。「無理はするんじゃない」 うなずいても、その手はすぐには離れなかった。美咲が俺の肩を軽く叩き、いつもの調子を探すように口元を上げる。「葵をよろしくね。あんたも、ちゃんと戻っておいでよ」 ルゥと回廊を曲がると、家族の声が遠くなった。袖の温かさだけが取り残されたようで、腕を下ろすのをためらう。振り返ればまた足が止まりそうだったから、先に行った二人の笑い声を思い出して歩幅を広げた。 城門の外では、夕風が頬に冷たかった。右手へ続く道をたどると、花の茂みの前で細い道が分かれている。白いものが見えて近づいても、薄明かりに浮かぶ花の房だった。城壁の影が長く伸び、行き先を教えた葵の声ばかりが、妙にはっきり耳に残る。「葵、ミユウ。どこだ?」 返事を待つ間、茂みをこする風の音が大きくなった。こんなに呼んで聞こえないほど遠くへ行ったのか。ルゥと顔を見合わせ、奥の小道へ踏み出しかけたときだった。「にいちゃーーん!!」
「どうした?!ミユウ!」 肩へ添えた手に、細かな震えが伝わった。黒い服の襟元には銀白色の髪が貼りつき、小さな白い翼が寝具を押している。息を吸おうと開かれた唇からは、掠れた音しか出てこない。目の前にいる俺を通り過ぎて、その視線は部屋の暗がりを探していた。 何を見たのか。どこか痛むのか。尋ねたいことが喉につかえたが、ミユウの口元がまた震えるのを見て、言葉を飲み込んだ。高い天井の聖紋も、月明かりを透かす白い垂れ布も、今は彼女を安心させてくれない。俺は顔を近づけ、視線が戻ってくるのを待った。「お兄さん、いる?」「いる、ずっと」 制服の袖を探っていた指が、俺の手を掴んだ。爪の先が食い込む。その痛みを受け止めていると、強張った指がわずかにほどけ、今度は小指だけを握り直した。手首に細い吐息がかかる。肩の震えは残っていたが、俺の顔を見つけた目が、ようやくそこに留まった。 大丈夫だと、何度でも言ってやりたかった。けれど、その言葉のあとでまた息を詰めたら、俺はどうすればいい。慰め方を探すほど、自分の声で彼女の苦しさを覆ってしまいそうで、繋いだ手に少し力を返すことしかできなかった。 寝台の縁から下ろした足に、石床の冷たさが沁みてくる。毛布を引き寄せるための片手さえ、今は惜しかった。ミユウが目を閉じても、指はときおり俺を確かめた。そのたびに握り返し、腕の置き方を変えながら、垂れ布の向こうが明るむまでそばにいた。 翌朝の小食堂には、焼けたパンと温かなスープの匂いが満ちていた。母さんが皿を寄せ、美咲が葵の口元についたパン屑を指摘する。石の壁に響く家族の声を聞いていると、夜の暗がりがようやく背中から離れていく気がした。「ミユウ、このジャムおいしいよ。昨日のクッキーにも合いそう」 葵が差し出した小皿の前で、ミユウのスプーンが止まっていた。呼ばれたことに気づくまで、少し間がある。「……うん。あとで、食べたい」 笑おうとした口元が、すぐに下がった。昨日は焼き上がったクッキーを自分から差し出していたのに、今朝は隣の葵へ何か言いかけても、膝へ目を落としてしまう。向かいの父さんも、そのたびにパンをちぎる手を止めていた。 食事のあと、父さんに呼ばれ、俺とルゥは窓辺へ寄った。夜中の様子を伝えると、ルゥは食卓に残るミユウを見て、声を落とした。「ミユウは九百年にわたり、ひとりで人々を助け
「おぉ、これは。勇者さまのご家族、ようこそいらっしゃいました」 母さんの相槌に、葵の声が重なる。修理の槌音にも負けない声で、妹は結界の光を見上げた。「ここって異世界ってやつだよね?あの漫画の!」 その目が俺の隣で止まり、銀白色の髪から覗く小さな白い翼へ移る。「妖精?!本物!」「天使だよ。それから……俺の婚約者の、ミユウ」 言った途端、家族の顔を見づらくなった。けれど、俺までうろたえてどうする。黒い服の裾を握るミユウのそばへ寄ると、彼女は俺を見上げてから、家族へ向き直った。「お兄さんに、いつも助けてもらってて……だから、ご家族にも会いたかったの。お兄さんと会えてよかったって、お礼を言いたくて」 母さんが返事をしかけた横から、葵が顔を出す。「ねえ、一緒に遊ぼうよ。何するのが好き?」「クッキー、作りたいけど……わたし、焦がしちゃうから」 同じ高さにある顔を見つめるミユウの手を、葵が取った。「失敗しないクッキーの作り方、教えてあげるよ」 神官に台所の方角を教わるなり、葵は歩きだした。ミユウが困ったように俺を振り返る。「あ、ちょっと」「あ、こら、キッチンまた焦がすなよ」「ベーっ」 二人を追おうとした俺の袖を、母さんがつまんだ。「家の鍵かけたかしら」 「火消してきたかしら」 空いた手でポケットを探っている。外出の途中で何度も聞いた声だった。石の柱の下で聞くには妙なのに、袖を引く指の力までいつもどおりで、俺はようやく母さんの顔を落ち着いて見られた。 美咲は柱の裏を覗き、天井の奥へ目を細めている。「映画のセットにしては本格的ね」 撮影現場を見る顔から、俺に目を戻した途端、眉が寄った。「その金髪、学校に何て言うつもり?」「俺が染めたんじゃないって」 神官たちの前で髪の小言を食らうとは思わなかった。勇者と呼ばれていても、姉に襟を直されるのを避けきれない。 父さんだけは壁の継ぎ目や窓の外を静かに見ていた。「我々は今まで、日本の実家で食事をしながら野球中継を見ていたはずだ。ここは現代日本じゃないことはわかる。」 俺が台所の方をうかがって顔を戻すと、父さんと目が合った。ミユウを紹介したときにも感じた視線に、背筋が伸びる。俺は傍らのルゥを、ここへ呼んでくれた相手だと紹介した。「うちの馬鹿息子が大層ご迷惑をかけたようですね」 ルゥは少
「おぉ、勇者さま!」 神殿へ戻った俺たちの前に、白い衣が駆け寄ってきた。靴底を通して伝わる石床の硬さに、ようやく足を止める。ルゥの祈りがまだ胸に残っていて、ミユウと交わす次の言葉を探していたところだった。 一人の声に、奥の神官たちも顔を上げた。欠けた柱の間から次々に人が現れ、足音が高い天井に反響する。見覚えのある広間には壁の崩れた跡が残り、窓から差す光の中を細かな埃が漂っていた。「勇者さま!」 「救世主さま!」 差し出される手に応じるだけで精いっぱいだった。衣の袖口は汚れ、爪の間に土が入り込んでいる。そんな手で俺を迎え、ほっとした顔をされると、何を返せばいいのかわからなくなる。「俺はそんな大層なことしてない」「おぉ、人間界の勇者さまは大層ご謙遜でいらっしゃる」 首の後ろがむずむずした。否定しても、また褒められそうだ。 そのとき、学校の制服の袖がわずかに引かれた。ミユウが隣から神官たちを見上げている。銀白色の髪が頬にかかり、黒い服の背で小さな白い翼が縮こまっていた。 俺に集まる声の中で、彼女が口を開きかけ、閉じた。 ここにいる人たちの無事を、きっと誰より喜びたいはずだ。それなのに、自分の立つ場所を探すような仕草をさせたまま、俺だけが礼を受け取っていたくなかった。「ミユウ一人に任せず、みんなのできることを分けてほしい。ここの守りも、修理も」 神官は俺の顔を見て、静かにうなずいた。軽い返事をしなかったことに、少し肩の力が抜ける。彼はミユウへ向き直ると、衣の裾が床につくのも構わず膝を折った。「ミユウ殿、我々は少し、あなたに甘えすぎていました。勇者さまのお考えの通り、強く拒否されるからと言って何もしないのではありません」 低い声が、最後にかすれた。神官は膝に置いた自分の手へ一度目を落とし、それからミユウを見つめ直した。 袖を握る指に力がこもった。隣を見ると、彼女の唇が震えていた。答えようと吸った息が喉でつかえ、頬を涙が伝っていく。「神官さま。でも わたし」 神官はその先を急かさなかった。ミユウが息を継ぐのを待ってから、入口へ掌を向ける。 壊れた石飾りの向こうに、淡い光が見えた。薄い幕を幾重にも重ねたような輝きが、入口から外壁に沿って続いている。崩れた部分を塞ぐその光を、ミユウも瞬きを忘れたように見ていた。「この神殿に、最も魔力の強い者
「はにゃっ?!」 ミユウの笑顔のすぐ脇で、黄金の翼が光をこぼした。傷ついた石床に落ちた輝きは、触れる場所を探すように揺れてから薄れていく。肩へ手を伸ばしたときには、そこにあったはずの顔が、俺の胸よりも低い位置に下がっていた。 黄金の髪を銀白色が染め直していく。長かったドレスの裾も光にほどけ、その下から見慣れた黒い服が現れた。ミユウは足元を確かめ、慌てて背中へ手を回す。指先に触れた白い翼は小さく、羽ばたかせても髪の先をわずかに揺らすだけだった。「あれだけ戦ったのです。力を使い切ってしまったのでしょう」 ルゥにそう言われても、ミユウは背中から手を離さなかった。羽根の感触を確かめるように指を動かし、それから、何もつかめなかった手のひらを見つめる。「さっきまで、できてたのに……」 もう一度翼に力を込めたらしく、肩が持ち上がった。けれど足は床から離れない。小さな踵が浮いて戻るのを見て、俺は差し出しかけた手を止めた。すぐに助ければ、できなかったことを突きつけてしまう気がした。「わたしも、お兄さんと戦えたのに」 黒い服の裾が、指の間でくしゃりと潰れた。俺を見上げようとした瞳が途中で伏せられる。唇を結んでも息が震え、こらえきれなかった涙が頬を伝った。「こんなちっぽけで弱いわたし、嫌い」 その言葉を聞くほうが、泣き声を聞くよりつらかった。 俺には、さっきまで隣にいたミユウと、今目の前にいるミユウの間に、そんな境目はなかった。手を握り返してくれた温もりも、共に戦いたいと言った声も、まだ身体に残っている。小さくなったこの手から受け取ったものを、どうして本人だけが、なくなったことにしてしまうんだ。 強かったぞ、と言いかけて飲み込んだ。それでは彼女が惜しんでいる姿ばかりを褒めることになる。今、俺の前で泣いているミユウに届く言葉が欲しかった。「じゃあ、俺がこうすればいい」 足裏の石の粉を踏みしめ、彼女の背丈まで屈んだ。疲れの残る膝を曲げると、制服の布が張った。片膝をつき、もう逃げ場をなくすほど近寄らないように、少しだけ間を残す。 濡れた睫毛が、何本か束になっていた。拭いてやろうとした俺の手を見て、ミユウが息を止める。その頬へ指を添えるまでに、俺のほうも一度、呼吸を整えなければならなかった。「そんなに泣かないで。お姫様」 口にした途端、耳が熱くなった。けれど、照
「やった……」 倒れたスライムが、青白い光になって芝生の上へ消えていく。 俺は剣を下ろした瞬間、その場に膝をつきそうになった。 息が荒い。 腕が痛い。 指先はまだ震えている。 それでも、俺は立っていた。 勝った。 たった一匹のスライムだ。 この世界では、子どもでも倒せるような魔物なのかもしれない。勇者を目指すなんて言っている人間が、ここで喜んでいいのかもわからない。 それでも。 俺にとっては、初めて自分の足で踏み出した一歩だった。「龍夜くん!」 ミユウが走ってきた。 次の瞬間、俺の両手をぎゅっと握る。「すごい! 本当にすごいよ! 龍夜くん、最後まで逃げなかった!
「いやあぁっ!」 ミユウの悲鳴で、俺は目を覚ました。 胸に寄りかかっていた小さな身体が、びくんと跳ねる。白い翼がばさりと乱れ、俺の腕から逃げようとするみたいに暴れた。 一瞬、何が起きたのかわからなかった。 ここはアストリアの神殿にある、ミユウの部屋だ。 昨日、ルゥに連れていかれた裏庭で、俺はスライム相手に情けないほど転がされた。何度も倒れて、立ち上がって、最後は気合だけでどうにか前に出た。 そのあと、膝が笑ってまともに歩けなくなった俺を、ミユウがこの部屋まで連れてきた。「龍夜くん、少しだけ休んでいって」 そう言って、俺の手を離さなかった。 本当はすぐ自分の部屋に戻るつもりだ
「雑魚だろ。そんなひょろくて能力もないやつが救世主なんて信じられん」 ルゥの声が、神殿の裏庭に冷たく落ちた。 白い石畳の上で、俺は拳を握ったまま動けなかった。言い返したいのに、喉の奥が焼けつくばかりで、うまく声にならない。 天界アストリアに召喚されてから、俺は何度も自分の弱さを見せつけられている。 戦闘力はない。魔力もない。剣を握っても、手のひらに残るのは頼りない重さだけ。 それでも、ミユウを守るためにここへ来たのだと、俺は思いたかった。「ルゥ、そんな言い方しないで」 俺の隣で、ミユウがむっと頬をふくらませた。 背中の白い羽が、朝の光を受けてやわらかく揺れる。神殿の庭に咲いた
「お前、なんで俺の名前知ってるんだ」 俺の声は、自分で思ったより低く響いた。 白い石で造られた広間は、天井がやたらと高い。柱には羽を広げた女神みたいな彫刻が並び、壁の奥では青白い光がゆらゆら揺れていた。 ここが天界アストリアだとか、俺が勇者として召喚されたとか、正直まだ頭が追いついていない。 それでも、一つだけ引っかかっていた。 目の前の少女――ミユウ・ネフェルト。 俺よりずっと小柄で、銀色の髪をふわりと揺らし、背中に大きな白い翼を持った少女。初対面のはずなのに、こいつは当然のように俺の名前を呼んだ。 瀬野龍夜。 俺が名乗る前に。 その事実だけは、どんな不思議な景色よりも気







